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評価すること、されること

 

私がまだ会社勤めだったころ、毎年決まって憂鬱になる季節があった。人事評価の季節である。大変な手間がかかるという理由だけではない。自分が人から評価されるのも憂鬱だったが、自分が人(部下)を評価することはもっと憂鬱だった。真面目に公平な評価をしようと心がければ心がけるほど、他人がある特定の人間を責任もって評価するなんていうことは不可能に近い、というような結論に至る気がしてならなかったからだ。

だが、どんなに憂鬱でも、「評価」は社会のあらゆる職業人にとって必要だと私は思っている。とかく怠惰に流れる人間を、より切磋琢磨させる(このこと自体の価値を認めないのであれば別だが)ためには、何らかの動機付けがどうしても必要だからだ。そして、たとえ個別の評価に誤謬や主観が付き物であっても、多くの人により毎年繰り返し評価が行われることにより、特定の人間に対する評価はかなりバランスの取れた客観性の高いものになっていくからだ。

とはいえ、大抵の場合、他者による評価は自己評価との間にギャップがある。普通は自己評価の方が高いのである。だが、自己評価がいかに高くとも、それとは大抵はギャップがある他者による評価の積み重ねこそが、泣いても笑っても、その人のその世界における「評価」なのである。尤も、その「評価」にどうしても我慢できなければ、その人は別の組織・世界に移ってもう一度自分の納得いく他者の評価を得るよう努める自由はある。つまり、所詮他人の評価に過ぎないのだ、という達観も必要だ。

私は学校の先生も評価されるべきだと思う。会社員の評価も、医者の評価も、警官の評価も、弁護士の評価も、官僚の評価も、政治家の評価も、そして先生の評価も、どれも皆難しいのだ。そして、どんな評価制度を作っても、矛盾や限界、課題が次々に出てくるであろう。だが、それでも評価を全く行わない状況に比較して、全体として評価は人間社会をより優れた方向に向けていく力になると私は思っている。

 
   
2005年1月31日
田嶋 要
 
 


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